懐石には「答えがない」という”答え”がある

最近の風潮か、時代の流れなのか、多くの人は「答え」を求めがち。

答えを求めるのはとても大事なこと。

 

でも「答えがない」という“答え”があるということも知っておかないと苦しくなってしまう。

もしかしたら、“答えがない答え”は近い未来に答えが見つかるかもしれないし、私が知らないだけで、すでに明確な答えがあるかもしれない。

 

 

私が思う、答えを出してよい、または出すべき答え

料理で言えば、理(ことわり)。これは道理であり、物事の筋道。

わかりやすく言えば、“なぜ”このような調理法をしなければならないのかという理由

 

例えば、大根の煮物を作る時、大根を輪切りに切って円錐の周りの角を面取りする。(面取りとは角の尖った面を少しだけ包丁で削り取ること)

これを見習いの料理人が教えてもらったとき、先輩に「なんで角っこを切り取るんですか?勿体ないです!」なんてことを言われたら、

先輩は「うるせぇ!そんなこと言われた通りにやればいいんだよ!」など頭ごなしに言ってはいけません。

 

100歩譲って、教えなくてもいいので「ちゃんと理由があるんだよ、なぜなのか理由を考えてみろよ」などと言ってあげてください。

後輩が一生懸命考えて、それでも答えがわからなかったり迷っている場合は、ヒントを与えたり、答えてあげれば良いです。

 

ちなみに答えですが、

面取りは輪切りや角切りにした野菜の角を薄くそぎとる下処理(下ごしらえ)のことで、大根、にんじん、かぼちゃなど固い根菜類を焚く時の煮崩れ(角がぶつかって形が崩れる)を防ぐ効果があります。

フレンチだとシャトーと呼ばれる切り方がそれにあたります。

 

これが料理における「答え」。

超簡単な例を挙げたので「なんだこれ」と思うベテラン料理人もいるでしょうが、

 

他にも、

  • なぜこのような盛り付けをするのか?
  • この順番は入れ替えてはいけないのか?
  • なぜこのひと手間が必要なのか?
  • この調理器具はなぜこのような使い方をするのか?
  • 食材の栄養素やバランスは?

などなど、たくさん「答え」のある調理や動作、扱い方はたくさんあります。

 

でも一方で先ほども言った“答えがない答え”もあります。

これはもしかしたら、私がお茶(茶道)と通じる懐石料理出身の料理人だから特に敏感に感じることかもしれません。

どんな一流の料理人でも答えられないことはあります。

もしかしたら答えられないのではなく、“答えてはいけない””答えたくても答えられない”のかもしれません。

 

その理由の一つとして、答えのない答えに対する答えは、(なんかややこしい表現ですが、、、)

 

『自分で見つけるための答え』だからです。

 

チンプンカンプンかもしれないので例を挙げますね。

 

 

答えのない答え

懐石(会席)料理の流れで“お椀”があります。お椀というのは、一般的にで言うお吸い物みたいなものですが、

漆器の器の中に、海老真薯(えびしんじょ)や季節の野菜などを添えて吸い地(お吸い物の出汁)をはる(注ぐ)。

 

その時に、器に盛り付ける食材の位置は、ちゃんと理由があり、なぜそのように盛り付けるのか答えがあります。

満月をイメージしているとか、川の流れを表現しているとか季節の表現や何かに見立てている場合が多いです。

 

でもその中でも、出し汁をお椀の中に注ぐとき、おたま(杓子、レードル)などで何気なく注いではいけません。

というより、この仕事は基本その場にいるトップの人しかできません。下っ端の料理人は、出し汁を注ぐことができないのです。それくらい重要なのです。

例えば、お椀の椀妻(メインの食材)の上から出し汁を注いだらぶち殺されます。ちゃんと手前から注がなければなりません。

これにはちゃんと理由があり、食材の位置をずらさないなどがありますが、

この動作は、食材があろうがなかろうが、同じような位置に液体を注ぎます。さらにいうと、おたまとか柄杓とかの傾け方や角度、スピード、高さなどもあります。

 

このようなとき、もし注意されたら「なんで?」と思うかもしれません。

でも“答えはない”のです。

 

器の洗い方、拭き方も「なんで?」と思う決まりがあります。最後は「の」の字を書いて拭き取る。

なぜでしょうか?

正直答えはあるかもしれません。が、私は「答えは無い」と思っています。

 

ある時期、私も躍起になって答えを探していた時がありました。

そして強引に答えを見つけ出し、関連させて結びつけていた時期もあります。(過去に書いたブログ記事にそんな記事があります)

でも、常に答えを探していると疲れてしまいます。エネルギーが減ります。

 

答えがあることから「逃げる」のではなく、「答えが無い」という答えを知るということです。

 

また少し違った観点から言い換えると「答えは無数に存在する」とも言えます。

 

人それぞれ、物事それぞれ、食材それぞれ、状況によって、その時の答えは違ってきます。

そのような“一つではなく無数に存在する答え”があるということも含めて、答えが無い答えがあることを知ることも大事なのではないかと思います。

これに共感してくれる人にはお茶を習っている人が多いかもしれません。私は茶人ではないので偉そうなことはいえませんが、お茶の作法では、なぜこのような動きをするのかに答えてもらえないことが多く、長く続けたときに自分で気付く、または自然と身体に身についてできるようになり、言葉では説明できない答えにたどり着く。

という不思議な現象が起こります。(私の場合だけだったらすみません)

 

「ある時ふと気づく」「なんだかよくわからないけどわかる」

 

このような現象はお茶に限ったことではなく、料理以外のどんな仕事でも、生活の中でもそのような「悟り」と言っていいのかわからないけど、それに近いものが得られる時があります。

第六感的なものに近いのでしょうか。「自然を感じる」とか。「ゾーンに入る」とか。

そんな表現に例えられることもあるかもしれません。

 

もっと具体的には、

  • 水とお湯の“音”を聞き分けられるようになる
  • なんて書いてあるかわからない掛け軸の文字からでも季節を感じる
  • 相手の微表情を感じ取り的確なアドバイスができるようになる
  • 季節の〝香り”を感じる
  • 普段目に見えていることは、実はほとんど何も見えていないと知る
  • 長年連れ添っているパートナーの考えが手に取るようにわかる(笑)
  • 彼氏の浮気を速攻見破る(これは違うか、、、)

 

このようなことを説明するのに、理由なんてありません。わかるものはわかってしまう。そんなときもあります。

 

 

ま、とにかく、

科学の進歩も手伝ってか、仕事でも私生活でも、周りの人間関係でも、どんなことでも答えが簡単にわかる時代になりました。ネットで調べれば大概の”答え”はすぐにわかります。そして多くの人は全てに“答え”を求めがちです。

でも何度も言うように『答えが無いという答えもある』ことを知っていれば、もっと楽に楽しく毎日を過ごせると思います。

ようするに「気楽に行きましょう」てことです。

そんなオチで終わります。