昆布の知られざる歴史 こんぶ=金

実は昆布と金は同じ価値だった

昆布は日本を代表する食べ物です。実は、「昆布が日本を近代国家にした」と言っても過言ではないくらい、大きな役割を果たしていたのです。

あまりピンと来ないかもしれませんが、歴史を紐解けば、いかに昆布がすごかったのかがわかります。*これは教科書には載らないお話です。

日本を近代国家にした「昆布ロード」

江戸中期から幕末、明治にかけて、蝦夷地(北海道)で収穫された昆布が、日本海側から京都・大阪に運ばれ、薩摩・琉球を経て清(中国)まで運ばれていたのです。

その道筋を“昆布ロード”と呼ぶのですが、“鎖国”のイメージが強い江戸時代、実は海を渡った経済活動が盛んだったのです。

そこで主役を果たしたのが、【昆布】です。

昆布は朝廷への献上物

昆布の歴史は1200年以上前にさかのぼり、昆布が歴史上に初めて登場するのは奈良時代。蝦夷地から朝廷へ昆布を献上したという記述があるのが最古の記録だと言われています。

輸送ルートが整っていない時代に、昆布は大変貴重なもので、現代では考えられないくらい大切に扱われ、その価値は金と同じだったと言われているのです。当時は、昆布は食べ物というより、薬として細かく削って使われていたそうです。

平安時代に昆布は“薬”から“食品”として、地位を確立し始めていました。ただ、まだこの頃、昆布はかなりの貴重品で、宮中・貴族・寺社などの特権階級をもつ人の食べ物だったのです。

そして鎌倉時代には、船のルートが整い始め、全国に広まっていきました。

このように、昆布は“薬”から“食べ物”に変わっていったのですが、昆布が“だし”として使われるようになったのは鎌倉時代からで、仏教の文化が伝わって、精進料理が伝わり応用のきく食材として重宝されました。

煮物だけではなく、揚げものにも使われ、胡麻油で素揚げした昆布は栄養価が高く、これが天ぷらのルーツという説もあるほどです。

戦国時代を迎え、出陣の際には昆布を食料として用いて、昆布が保存に優れ、携帯にも便利だったことがわかります。

また、「打ち、勝ち、よろこぶ」の縁起のよい語呂合わせから、アワビや栗とともに、勝利を祈願して昆布も好まれていました。

その後、武家社会において、裕福な武士の間で茶の湯がたしなまれるようになり、精進料理の影響を受けながら、懐石料理として発展していったのです。

茶の湯の「侘び」「寂び」 精進の「供養」という考え方がマッチし、食材を感謝していただく懐石料理の精神と結びつき、それが現代にいたるまでの日本人の食事の考え方の根底となっているのです。

ニシンと千石船

また当時、昆布の他にも、鰊(にしん)もよく使われました。千石船と呼ばれる

  • 全長約30メートル、
  • 幅約7.5メートル、
  • 帆柱の高さ約27.5メートル、
  • 帆桁幅約19メートル

そして、米が千石(およそ2500俵の米にあたる)運べたことから命名された船です。(ちなみにお米1俵は60kgです。)上り船で石や瓦下り船でニシンを積んで重石がわりにしていたため、相当量なものだったと思われます。

日本料理でよく使われる“千石豆(せんごくまめ)*フジマメ”この千石船に形が似ていることから名づけられていますね。